yocinovのオルタナティブ探訪

安価で安全な代替・補完医療を求めて

「ナントカ療法を模索するということ」

医者という仕事をしていると、主治医から「これ以上は有効な治療がありません」「治癒を目標とした治療戦略を立てるのは困難です」などの病状説明を受けた患者さんやご家族、あるいは近しい方が、代替医療や補完医療の「ナントカ療法」の可能性を模索するという構図をしばしば目にすることがある。

 

「ナントカ療法」を模索してしまう心情は理解の範囲外のものではない。キューブラー・ロス著「死ぬ瞬間」によれば、人が死に直面した際には「否認(自分が死ぬなんて嘘だろ)」→「怒り(なぜ死ぬのが自分でなければいけないのか)」→「取引(死なずにすむ方法はないものか)」→「抑うつ(何もする気が起きない)」→「受容」プロセスを辿るとされる。「ナントカ療法」を模索するのは文字通り「取引」のステップの一形態であり、何ら特別なことではない。

 

近しい人と死に際の時間を共有する経験などというものは、多くの人間にとっては極めて限定的なものだ。その限定的な乏しい経験の中で、苦悩や怒りを解消しようとあがいた結果として「そうだ!ナントカ療法ならナントカなるかもしれない」という「取引」に至ってしまうのは避けがたい心理なのかもしれない。

 

しかし、その経験不足故に行き着いてしまう「標準治療がダメなら代替医療しかないよね」という発想は、「女子へのプレゼントでアクセサリーがダメなら花束以外には思いつかないよね」という、極めて想像力に欠けた中二病的な発想とも言える。実際の中二病なら放置しておけば解決するのだろうが、終末期医療における中二病にはその時間的ゆとりはない。できれば回避したいし、陥ってしまってもなるべく短期間で抜け出したいところだ。

 

そしてそれは往々にして、「もっと親孝行をしておくべきだった」という良心の呵責や、「あらゆる可能性を追求しないことには自分的に納得できない」「可能性を一生懸命に探っている自分ってチョット眩しいかも」といった自己満足とも関連して見えることが多い。

 

はたして「標準医療ではこれ以上は…」と言われてしまった患者さんやご家族が優先的にとるべき行動とは、「ナントカ療法が効くらしい」といった類の情報を集めることなのであろうか?

 

一つの大前提として明言しておく。現時点において世の中にある全ての「ナントカ療法」は正真正銘の「ニセモノ」と言い切って良い。ちなみに、ここでいう「ニセモノ」とは「有効性が証明された実績がまるでない」ということだ。

 

「ニセモノと言われているものの中にもホンモノが紛れているかもしれないじゃないか」という意見がある。確かにその通りかもしれない。しかし、私は今のニセモノの中からホンモノが出てくる可能性は低く、あってもほんの一握りだろうと考えている。ニセモノがホンモノになることは患者さんや標準的な医療者にとっては福音以外の何物でもない。ではあるが、ニセモノの提供者にとっては、ニセモノがホンモノになることには何のメリットもない。彼らの食い扶持がなくなるだけだからだ。彼らがニセモノをホンモノにするための努力をすることはないと言っても過言ではない。

 

「ニセモノ志向」という概念がある。大まかに言えば「仮にニセモノだとしてもホンモノっぽければ気にしないよね」というものだ。いくらニセモノ志向であっても「ニセ療法」と名乗るわけにもいかないから、それならばちょっとでも信憑性を持たせようと「ナントカ療法」とそれらしい名前を称することになる。例えば「砂糖玉療法」ではニセモノ臭が尋常じゃないけど「ホメオパシー」ならホンモノっぽいよね、というのが好例だろう。ホンモノっぽいのは名称だけであり、その中身は大抵お粗末なものだ。

 

「患者がニセモノに惹かれるのはホンモノの信用性が低いからだろ、反省すべきはお前らだ」という意見もある。確かにそれもあるかもしれない。実際に信用に値しない医者が存在することは否定しない。しかし、ニセモノを信じてしまうような人にホンモノの信用性を見定めるだけの能力があるだろうか。「このホンモノは信用性が低い」と疑うのであれば、何もニセモノを探すのではなく、信用性の高いホンモノを探せばいい。

 

「ナントカ療法の真偽自体が問題ではなく、その療法が希望の光を灯し続けてくれるなら意義はあるのではないか」という意見もある。本当は治る見込みなんてないのに、治るかもしれないよという幻想を持たせることに意義があるというのだ。しかし私が思うに、それは「絶望した患者を見ているのがつらい。だからニセモノでもいいから希望を持たせたい」という家族側の自己防衛に過ぎないのだと思う。

 

これらはまさに死の「受容」への歩みを妨げる行為に他ならない。

 

「あんな医者の言うことなんて信頼できない。きっと他にいい方法があるはずだ」という『死なんか受容する必要はない』的な発言や、「諦めたらダメだ、気持ちで負けた時点で終わりだよ」「遣り残したことがあるんだろ」「子供がまだ小さいのだから頑張れよ」「親より先に死ぬなんて親不孝だよ」という『死を受容するなんてけしからん』的な発言は些か傲慢であるように思う。

 

場合によっては「『死ぬ瞬間』を贈るので読んでみてくださいね」や「もう頑張らなくていいんだよ」といった『死を受容するお手伝いをします』的な発言ですらおこがましい気がしてしまう。

 

「ナントカ療法」を模索してやめられないご家族は、患者さんが死の「受容」へ向かって歩を進めるのをナントカ阻止しようと悪戦苦闘している状態だ。このようなご家族にとっては「取引」から「抑うつ」「受容」をすっ飛ばしてダイレクトで「死」に至ることができれば本望、ということなのかもしれない。「最期まで望みを捨てずに頑張れたよね」と自分達に言い聞かせるために。

 

しかし私は思う。幻想的希望を保持することよりも、これまでの人生を評価してみせること、そして後顧の憂いを払拭してみせることのほうが、天秤にかける価値すらないほどに重要なのではないかと。

 

人が自分や家族のことを想って行動すべき時は、決して死に際ではないはずだ。私は、自分や家族が死に直面した際には、自分や家族が死を受容することの妨げになるような行動を控えたいと思っている。無駄な「取引」に時間を費やさないようにすること、それが医者である私の最大の強みだとも思う。

 

「ナントカ療法」を模索するのは罷りならん!とまでは主張することはできない。それもまた一連の流れの中では必要な作業なのかもしれない。しかし、終末期患者さんを喰い物にする悪質な統合医療ビジネスがあるのも事実だ。深入りし過ぎないことを只々祈るばかりだ。